THE FLAMENCO TSUNAGU「つなぐ」

2020年1月 フラメンコX日本民謡X舞踏 TSUNAGU公演 出演アーティストの素顔   

THE FLAMENCO TSUNAGUのメンバー ラファ!

THE FLAMENCO TSUNAGUの座長 亜哉子です。

柴崎さんが、自然と涙がこぼれた舞踏との出会いは衝撃的でしたね~。

 

フラメンコチームの素顔も知っていただきたく、メンバー全員に、同じ質問を投げかけてみました。

 

質問は・・・

『あなたとフラメンコの出会いは、いつでしたか?』

『プロになろうと思ったのはいつでしたか?』

『あなたの、尊敬する人は、誰ですか?(家族でも、スポーツ選手でも構いません)』

の3つです。

 

それぞれ個性的な答えがかえってきていますよ!

 

 

まずトップバッターは、踊り手のラファエル・マルトスさん。

 

ラファエルは、かなり前からフラメンコの公演や、教授活動などを日本でも行っていて、私も8-9年くらい前に、知人の紹介から日本で踊りを見てもらったのが初めての出会いでした。

 

えらい辛口の評価を受け、くらっとしました・・・

良く考えてみると本当の事しか言っていないラファエルに、尊敬の念を抱き、それから今に至るまで彼からフラメンコを習っています。(クラスは、非常に厳しいです 汗)

 

私の現在の先生は、グループメンバーのラファエルとキカです。

キカについてはまた改めて・・・

 

さてラファエルさんですが、TSUNAGUプロジェクトメンバーの踊り手。

 

メンバー紹介ブログ(相関図付き)にも、ありましたが、踊りは、まず正統派ですが、ダークで哀愁一杯。ちょっと近寄りがたいといういう印象を与えますが、本人は、大変気さくで、子供になつかれます。

 

自然と動物と鳥とサッカーが大好き。フラメンコやる前は、サッカー選手になれるかも?しれないくらいの、地域でちょっと目立ったプレーもできる人だったようです。

 

大の親日家で、大好物は、アサヒスーパードライと枝豆のセット。

PR撮影の日には、張り切って、日の丸入りの、錦織圭選手サイン入りのポロシャツを着てくる人です。(笑)

(的を得てるのか、得てないのか、、、私的には、スペインらしい、または踊り手らしい感じの服装で攻めてきて欲しかった・・・)

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錦織圭選手サイン入りユニクロを着たラファエルさん

 

ラファエル少年、中学生の頃に遡ります。

お父様は、なんと、闘牛士をしていらした方でしたが、この時期、お母様が他界されたりしたことで、家庭の事情が大きく変わり、男手一つで、ラファエルを育てる為に、闘牛の世界から抜けることを決意したそうです。

闘牛界とフラメンコ界は、繋がっていまして、ひょんなことから、お父さんの友人に、息子さんに、フラメンコを習わせてみたら?と勧められ、ラファエルは、基礎を始めたそうです。

 

身体能力の高いラファエル少年は、みるみる上達し、その時代の有名なフラメンンコアーティストのマネージャーなどの目にとまったそうですが、まだ、中学生~ですから、仕事を始めるわけにもいきませんね。

そのまま、国立芸術舞踊高等学校に進み、そこで、スペイン舞踊の学位を取得します。

 

スペインでは、バルセロナオリンピックが開催され(1992年)、有名舞踏家、クリスティーナ・オヨス舞踊団が、開会式で踊ったのですが、その舞踊団に、ラファエル少年は、見事、選抜されて踊っています。

 

17歳になると、一人立ちをして、フラメンコの仕事を地方で始めたそうです。(イビサ島やなどおイベントが多いところなどに出向いていたそうです。)

 

ただ、フラメンコの本質を本格的に知ったのは、マドリードに住み始めた時だそうです。

 

タブラオという、フラメンコを見せる専門のお店やレストランがマドリードには沢山あります。フラメンコ発祥のアンダルシアには、アンダルシアの原石のようなフラメンコが沢山ありますが、マドリードは、何と言ってもスペインの首都、つまり、東京と同じですから、一旗揚げたいアーティストが集まる刺激的な街です。

一流アーティストはその時代、マドリードに集まっていました。

 

そこで、そんなアーティスト達と、毎晩、毎晩、踊って本質的な本当のフラメンコを身につけたそうです。

 

沢山の興行主の目に止まり、ラファエルは、自身の舞踊団を持つまでになります。

スペインもバブル期で、経済も元気でした。

 

時は流れ、ここ10年ほど、スペインのバブルは弾け、ベテランアーティストでも、なかなか厳しい時代が続いています。それに加え、アーティスト活動は半年や1年は、家に帰れないことが当たり前。若きラファエルは考えた挙句、収入の安定した仕事を始めまル決意をします。

 

それでいいの?と私もびっくりしたりしましたが、彼にとっては、人に媚びたり、安くしても良いから、希望通りの演目をやるから踊らせてくれ、というこの時代なら、踊らなくも良い。と決断したのだそうです。

 

それくらい彼には、踊りが大事だと言います。踊らなくても、彼のフラメンコの本質は変わらないのだと言います。

 

そんなラファエルが、このメンバーだったら、無条件でフラメンコをやってしまいたい。と、久しぶりに思えたのがこの、”THE FLAMNCO” のメンバーなのだと言います。

 

ラファエルは、フラメンコチームのリーダー的存在、構成を担当してくれています。

 

そんなラファエルが尊敬する人、夢の中でも逢いたいフラメンコアーティストは、

ずばり、踊り手ではなく、

     歌い手の「カマロン・デ・ラ・イスラ」 と

      ギタリストの 「パコ・デ・ルシア

 

あらら、この2人の名前は、このブログにも既に、登場しましたね。

(”座長亜哉子のジャニーズ以外のアイドル”編で、登場しますね)

 

因みに文章中に出てきた クリスティーナ・オヨス 

これは私の永遠の恋人 アントニオ・ガデスと一緒の映像がたくさん見てます!

https://www.youtube.com/watch?v=pTVqfCPq_CE

 

踊りだけ見ると近寄りがたい感じがしますが、本当に気さくなお人柄なので、公演の会場で見かけたら、声をかけてくださいね。

 

ワンポイントスペイン語

こんにちは~!英語のHello ! は、Hola ! (オラ!)です。

How are you? は、¿Cómo estas? ( コモ エスタス?) 

もっと短く ¿Qué tal?  (ケ タル?)でもOK

会話が続かなかったら、Goodbye ! は  Adios! ( アディオス) (笑)

カナカナ読みで大丈夫!

 

では、また次回まで! Adios !

 

#rafaelmartos #Camaron de la Isla #Paco de Lucia #THE FLAMENCO #TSUNAGU

 

 

 

 

舞踏家柴崎さんが舞踏に取りつかれた作品とは?

THE FLAMENCO TSUNAGUのブログ管理人のHIROです。

前回のブログはTSUNAGUプロジェクト公演の舞踏家柴崎さんが、最初に舞踏を観たときのことを書いてくれました。 

今回は柴崎さんの心を捉えた作品を紹介してくれます。

出てくる演目や名前は、ググっても詳しいことは出てきませんので、何も難しいことは考えずに、柴崎さんの文章で舞台で繰り広げられていた世界を想像してみてください。パッヘルベルのカノンを聴きながら~♪

 

         「狐のコン」   柴崎 正道

 

私が舞踏の核心に触れたと心底感じた舞台がある。それは、ダンス・ラブ・マシーンという舞踏集団による1980年代始めの公演「狐のコン」である。

その演目のひとつに私は震撼し、舞踏の持つ表現力に取り憑かれた。

 

男がひとり佇んでいる。男は白い幅広の帽子を浅く被り、上はややくたびれたグレーのシャツに、黒色のスラックスという出で立ちだった。足は裸足である。

 

舞踏と言えば、体を粉白粉で白く塗るのが恒例だが、男は全身を白塗りにしていない。白塗りにすると、体温が冷却され客席とは体温の落差ができるのだが、巣の肌だと体温はそのまま客席に伝播し、逆に演者の熱量が客席を凌駕するように感じられる。

 

舞台にこぼれるように流れた楽曲は、かの有名な「パッヘルベルのカノン」である。

男は、流麗な曲の調べに合わせ、思い出すようにわずかに身をよじらせる。男の顔は、微妙な歪みを表面に浮かび上がらせる。その歪みは、苦しみではない。痛みでもない。泣いているわけでもない。じっくりと追ってみるが、何から生まれた歪みなのかはわからない。今まで経験したことのない、いくつもの感情が居場所を求めているような表情である。

 

男は身をよじらせ、その振幅を増幅させる。その振幅の意味するところも不明である。

もはや意味は、浮遊する具象となり、意識の埒外で戯れに揺らいでいるのみである。

だが、男の身のよじれはそれを観る私の内奥に執拗な持続を持って語りかけてくる。

男は、ヘソを丸裸にしつつ、シャツの縁を口に咥え、シャツが造形する皺にまみれながら、ついに仄かな微笑みに転化した、慎しみ深い歪みの表情を放射するのに一心である。

 

はにかむような、狂おしい偏向に満ちた表情と悶えるような身のねじれに身を任せた男と客席にいる私とが一体となった感に圧倒された。

その刹那、あたりから何やら微かな啜り泣きの声が聞こえてきた。それは、実際にひとりの微かな啜り泣きであった。しかし、それはもはや私の周辺で際限なく起きる啜り泣きの連鎖だった。

 

気がつくと、私の両の瞼から、大粒の涙がこぼれ落ちていた。

涙を流す感情の前触れとなる高まりもなく、いきなり涙したのはこの時が初めてであり最後である。

男の名は、「田村哲郎」。1991年に41歳で他界した。

 

 

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#舞踏 #柴崎正道 #ダンス・ラブ・マシーン

柴崎さんの舞踏との出会い

THE FLAMENCO TSUNAGUブログ管理人のHIROです 

前回は、我がTHE FLAMENCO TSUNAGUのメンバー紹介を簡単にさせていただきました。

TSUNAGUは FLAMENCO X 民謡 X 舞踏 のメンバーで構成されているのですが、おそらく舞踏が一番「何?」と思う人が多いかもしれませんね。

 

そこで舞踏家柴崎さんが、舞踏との出会いから… を書いてくれました。

本当に何がやりたいのかわからなかった大学生の柴崎さんが、偶然舞踏に出会う。その先、柴崎青年は… 早くその先が知りたいそんな内容の柴崎さんの手記お楽しみください!

 

『初めて出会った「舞踏」なるもの』  柴崎 正道

 

私が、初めて舞踏を観たのは、大学2年の夏である。

 

それは、唐十郎率いる状況劇場で怪優として名を馳せた麿赤兒が創設した「大駱駝艦」の公演であり、「貧棒な人」という人を喰ったタイトルのもとに上演されていた。

 

以下、正確な公演の再現とは言えまいが、当時の印象の記憶を綴ってみよう。

 

舞台照明は、暗闇が舞台空間を優先的に侵食しているかのように仄暗いなかで、静かに息を潜めているような薄明かりが点いては消え、ついては消えする。

つまり、暗闇が主役であると訴えるかのような灯りである。それは、幼い頃、よく遊んだ納戸の中の暗がりを私に思い出させた。

そんな暗闇になかば溶けたような輪郭を持つ“からだ”らしき塊が仄白く浮き上がる。仄白いその肌には、汗が滴り、薄暗い光を放射状に反射している。

呼吸をしているような灯りに照らされ、暗闇に浮き出た肌の蠢きを目にすると、それがようやく“ひと”であることがおぼろげにわかってくる。

あたりには、菊の花のような香気が黴(かび)にまみれたような鼻をつく匂いが満ちている。あとでわかるのだが、それは演者が肌にはたいた粉白粉の匂いである。

ここに至って、私の脳が初めて目にするものに困惑しているのではないかと感じる。

頭では理解できていない何かが目の前に現れたことで、驚愕から来る軽い虚脱感に見舞われているのかもしれない。と同時に、いつしか両腕の鳥肌がたったと思う。目の前で揺らめく存在の芯が直接私の皮膚に訴えてくるのだ。

舞台に立つ白粉まみれの“ひと”は、強烈に何処かを見つめていた。

そのひとは、確かに立っていたが、わずかに歩みを進めているようにも見えた、が、それを凝視していた私の意識は、あまりにもたおやかな歩みの遅速さに、とろりとした睡魔の誘惑に浴していた。ひいては、不覚にも瞼を閉じ、しばし脳内の暗黒に身を委ね、夢ごごちに寝入ってしまったのである。が、“ひと”はほぼ同じ場所に同じように立っている。やがて、唐突の目覚めを経て感じた、深い心地よさからして、それなりの時間経過があるはずだが、目の前の情景は何ら変わっていないようだ。

やがて、舞台は賑わいの頂点に達した。

禿頭、眉は剃り、ほぼ全裸で白塗りの出で立ちで現れた男女が、白眼で大勢蠢いている。

あるものは不動の態であり。あるものはひきつけを起こしたかのように激しく痙攣(けいれん)をする。

ここに至って、人間の正体は歴然として暴露される。滑稽の純粋な塊であることによって、絢爛(けんらん)たる威厳に満ちた、その正体が言いしれぬ恐怖をもたらすのと同時になぜかどこかにおき忘れてきた郷愁であることを、“ひと”が強烈に放射していたのだ。

 

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柴崎正道さん

 #舞踏 #柴崎正道 #大駱駝艦

THE FLAMENCO TSUNAGUプロジェクトメンバー紹介!

THE FLAMENCO TSUNAGUプロジェクトブログの管理人HIROです。

 

これまで座長からメンバーについて、ちょこちょことコメントがありましたが、もう少し詳しく紹介していきたいと思います!

 

まず連続ドラマさながらの人物相関図をご覧ください。座長亜哉子を中心とした今回のプロジェクトに大きくかかわる方々をまとめてみました。

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まず私と座長亜哉子は、ひょんなことからフラメンコとは全く関係ないお仕事で知り合いになり、ついここ2-3年で彼女の本業がフラメンコダンサーだということを知った次第です。彼女の踊りを初めて観たのはもう3年近く前になるかな… 錦糸町でのライブでした。その時に、彼女の師匠であるラファエルと舞踏家柴崎さんも出演していました。

 

フラメンコのことをよく知ってるわけではない私ですが、数は結構観ています。座長の踊りは、フラメンコが好きだという気持ちがめちゃくちゃ感じられ、誰のものでもなく唯一無二の亜哉子のフラメンコを見せつけられ、とても印象に残る踊りでした。

 

同じ舞台で観たのが、ラファエルと舞踏家の柴崎さんの共演でした。私は舞踏というものがどういうものなのかも知らず、なぜ柴崎さん全身白いんだろう…と思いながらも、柴崎さんがラファエルと光と影のようになって舞台で舞っているのが強烈な印象で目が離せませんでした。一緒に連れて行った息子(当時5歳)も目を見開いてみていました。

 

終演後、一番最初に息子が一緒に写真撮りたいと言ったのが、なんと柴崎さんだったのを今でも覚えています。

白塗りで怖がると思ったら、息子にとってはなんと一番印象に残った人だったのですね!

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それから何度か柴崎さんとお会いしていますが、寡黙な天才というか内に秘めているものがたくさんある人だなというのが私の印象です

 

ラファエルは、うちの息子と旦那ともども親しくさせていただいています。うちの息子にいつも「フラメンコやってみなよ」と声かけてくれますが、マイペースで現実主義の息子は「あんな難しいのは僕できない」ときっぱり。面白い会話です。

踊りは、ダークで哀愁一杯、ちょっと近寄りがたいなという印象を与えるのですが、ご本人はとても気さくで子供になつかれるタイプなんです。

 

キカとは、2年前私の会社の10周年記念の旅行で、お客様と一緒にスペインに行った際に、タブラオで踊ってくれた時に初めて知り合いました。第一印象は綺麗で美人でエレガント!

踊るとそのエレガントさの中に力強さがあり、私がうん十年前にグラナダの洞窟で観て圧倒されたおばちゃんのフラメンコをほうふつさせるのです。見た目は全く違うんですがね・・・ 我が座長とは全く違うタイプの踊り手さんですが、フラメンコ愛は一緒。決して現状に満足せず精進し続けている人なんじゃないかなという印象です。

 

唄のマヌエルは、一度だけこのプロジェクトの結集会であっただけですが、他のメンバーよりアンダルシアの特有の単語がでてくるので、アンダルシアに住んだことのない私は、気を抜くと会話を見失ってしまいます。(笑) 

どっしりと構えた吟遊詩人というのが私の勝手な第一印象です。

 

ギターのマルコスも結集会で一度会ったきりですが、一般的にいったらイケメンのグループへ入るのでしょうか?(人それぞれの好みはあると思いますが・・・) 

しかし、言動が親しみやすく、決して近寄り難いイケメンではありません。PRの撮影に、スポーツ選手が更衣室でシャワーの後に履くみたいなサンダルで来てしまうのでそのセンスが面白すぎます。 

彼の弾くトレモロ(チャラララ チャラララと弾くもの)は、なんか優しくてきれいで好きなんですよね~。私の勝手なイメージは、近所にいそうなギターの王子様。(矛盾??)

 

そして民謡の唄、あきみさんと三味線の矢吹さん。舞踏の柴崎さんを通じてこのプロジェクトに参加していただくことになったお二人。とてもすごい方たち。あきみさんの声は、クリスタルな感じなのに、太さもある個性のある素敵な歌声なんです。

矢吹さんの即興は圧巻。私の勝手な印象ですが、センスや言動などがギターのマルコスとめちゃくちゃ共通点があると思うのです。とにかく最強のご夫婦です。

お二人と知り合うことで、今更ながら日本の民謡の面白さとすごさに魅せられ始めました。

 

こんな個性豊かなアーティストが、意見をぶつけ合いながらいろいろ生み出していく姿を見ることができるのは幸せだな~と思うのです。

すごいエネルギーです。

 

次回は、柴崎さんが舞踏との出会いについて書いてくれるそうです。

楽しみ~。

座長亜哉子のジャニーズ以外のアイドル

THE FLAMENCO TSUNAGUのブログ管理人のHIROです

我が座長は今でもジャニーズ好きで、スペインの人たちを車に乗せるときにも嵐をかけてしまうのには驚きなのですが、とにかく好きになるととことんそれについて調べたり、聞いたりする性格には頭が下がるのです。

だからこのTHE FLAMENCO TSUNAGUの個性豊かなメンバーに和をもたらしているんじゃないかなといつも思います

その座長が、本職フラメンコでアイドルとして愛してやまない偉大なアーティストたちがいます。(もちろん一番愛するのは前にも書いたアントニオ・ガデスです)

今日はそのことについて語ってもらいました

 

座長の亜哉子です

 

今回は、25年前のグラナダの思い出を書いてみます。

1995グラナダです。

 

その頃、サクロモンテの丘という、アルバイシン地区の横のヒターノ地区(ジプシー/流浪の民)は、夜な夜な、ショーを上がった地元のアーティスト達が集まり、夜中の2時から朝にかけて、彼らの本気唄が聴けたりするチャンスが多々ありました。

 

私は、友達が居なかった訳ではありませんが、そんな夜中まで付き合えないといわれ、かなりの割合で一人でサクロモンテに入り浸っていました。

 

当時は、物価も安く、ポケットに2千円~3千円あれば、ライブに行き、お酒を飲んで、朝は、チューロス(甘い揚ドーナツ)を食べても、ちょっとお金が余りました。

 

ヒターノ地区なので、ヒターノ率が高く、彼らに、あれを聴け、これを聴けと、教えてもらったりしてました。

 

ヒターノ達の神、カマロン・デ・ラ・イスラ1950125日~199272日)という歌い手は避けて通れません。

歌声が聴ける映像です

https://www.youtube.com/watch?v=7xvEhUTrW_E

 

ペーニャ(フラメンコ愛好会の集まるコアな集会所)には、このカマロンの手作り感満載の石膏像が置いてある確率が多く、どこにも置いてあるし、”これは誰” と、たどたどしいスペイン語で聞いたものです。

 

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皆のジェスチャーから、ただ者ではないと思うと、アルバムの名前や曲名をメモして帰り、次の日、CDを買いに行ったりしていました。

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当時買い集めたCD

 

カマロンは、彼らのアイドル、神、でしたが・・・

 

さあ、大変、私がスペインに着いた、3年くらい前に亡くなってるんですね。

偶然、72日(カマロンの命日)に何も知らずにサクロモンテで飲んでいた私は、夜が更けるにつれ、ヒターノ達がどんよりしてくるのに気がつきました。

 

歌うのは、カマロンの歌ばかり。泣いているヒターノもいますし

『君の国では、魂はどこに行くって説明してるんだ?カマロンの魂がどこに行ったか教えてくれ』 

と言われたのは、忘れられません。

 

その頃の彼らのファッションはイキ切ってる感じで、長髪で、金のアクセサリーをジャラジャラつけている人が多かったです。

 

ヒターノ達のギタリストのアイドルは、トマティーというやはり長髪のイケメンでした。

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トマティートのアルバムジャケット

ヒターノに対して、彼らの言葉でヒターのではない人たちのことをパジョ(非ヒターノ)という言葉があります。

もう一人のスーパーギタリスト、パコ・デ・ルシアは、彼らが言うには、

『パジョなのに、すごい奴がいるから聞いたほうがいい。』

という面白いコメントがあったりしました。

 

パゴ・デ・ルシアとカマロンの音源がきけます

https://www.youtube.com/watch?v=3KZyy8Oc1QA

 

彼らは“ソウル”のある音、“黒い音”を好みました。

 

吾愛さんの「フラメンコの楽しいトリセツ」第一弾にあったように、国内には、ヒターノへの差別は確実にありました。

他所から流れてきた彼らには、3K、4Kの仕事しかありません。代表的なのは、そのちょっと前の時代は、炭鉱でした。

 

スペインの東側の海岸地帯には、炭鉱が多く、その辛い、辛い、仕事の事を歌ったメロディや、唄が、あります。歌詞の例として

 

『毎日、毎日、この暗い洞窟の中で登ったり、降りたりしてるだけ、神様はいつ、僕を解放してくれるのかな』 とか

 

『昨日、炭鉱で音がした。俺の弟は、もう居ない。。。昨日の音の後。。。』

炭鉱が崩れたのでしょうね。。。。

 

19952000年、スペインは、ヨーロッパ統合に向かい、なんとなく、生活も変わってきたかな?と思った頃、ヒターノ達の中に、髪を切る人が多くなりました。

 

単に、長髪が流行っていたとも取れますが、ヒターノ達が、ヒターノらしく居られない時代が近づいてきたのでしょう。

もう、籠を編んだり、鉄を打ったりするだけでは、生活ができない。

炭鉱も減少します。

企業に属してで働くしかないのです。

あるヒターノは髪を切ってきて、私に言いました。

『どうだ?これで、パジョっぽく見えるだろ?明日、ビール工場の面接に行くんだが、髪が長いとヒターノだからと一次面接で落とされちまうからな』

 

ヒターノ達の仁義 ”シャツ破き”(Rompe camisa)を見たのも、この頃です。

 

彼らの結婚式などでは、今でも、行われていると思います。

最高に嬉しい時に、自分のシャツを引きちぎります。

 

私が見たのは、サクロモンテで朝方、ものすごい唄のバトルになったとき、一方が、もう一方のものすごい域の唄にひれ伏す代わりに、

『あんたの唄は最高』という思いを込めて、自分のシャツを引き裂きました!

 

私にとっては衝撃的でしたが、周りは、意味を知っているので、

私だけ『どうした?何があった?』とは、騒げず、えらいドキドキした記憶があります。

 

カマロンの有名な曲に、タイトルもズバリ、「俺はヒターノ」という曲があり、

『俺は、お前の結婚式に来た。俺はヒターノ。たった一枚しかないシャツを破くんだ』

てな具合です。(意訳)

 

シャツが一枚しかなくても、それがどんな高級な生地でも、破くんです!

 

さて、あれから、25年経ちました。カマロンが亡くなってからは、27年?ですか?

 

今月の2日、夜の3時半くらいに、THE FLAMENCO TSUNAGUメンバーの唄い手、マヌエルから、メッセージが届きました。

そこには、カマロンの写真。。。。。 

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マヌエルがカマロンの命日に座長に送った写真

カマロンの命日でした。そう、マヌエルの神は、何十年経っても、カマロンなんです。

 

マヌエルには、もちろん敵いませんが(笑)カマロンは、私の神でもあります!

                             BY AYAKO

 

 

YOUやっちゃいなよ

THE FLAMENCO TSUNAGUプロジェクト ブログ管理人のHIROKOです。

女性ならジャニーズにはまったことがある方が多いのではないでしょうか?

座長亜哉子もジャニーズ好き! 座長亜哉子は昔の自分を振り返りながら、今回の公演を決断する経緯にもジャニーさんが生み出すアイドル達に大きく影響されていたことに気づいたそうです。亜哉子のジャニーさんへの思いをお聞きください。

 

THE FLAMENCO TSUNAGUプロジェクトの座長亜哉子です。

先日、ジャニー喜多川さんの訃報がありました。 

ジャニーズのタレントには、何十年も!! 夢を見させてもらいました。

 

ニュースを見ていて、私にもジャニーさんの『YOUやっちゃいなよ』 精神が自然と根付いていた事に気付きました。

私のやっちゃいました記録を良かったら聞いてください。

 

私は、才能も含め、普通人、一般的な人間です。

どちらかというと、学校では、ギリギリ、鈍臭い方に入るか、入らないか、のところにいました。

数学苦手、音痴では無い、足は遅いが、球技は得意な方、鉄棒は居残り組。

 

今、感謝すべきは、そんな私を知ってか、両親は、色々見せたり、経験させてくれたことです。

ピアノは10年通い、モーツアルトを弾けるようにはなりましたし、テニスを教えてくれて、高校時代は、神奈川の湘南地区で、私達のチームは、優勝したりしました。劇場が好きな両親は、月一くらいで、歌舞伎、劇団四季、バレエ、等、色々なジャンルに連れて行ってくれました。

(その一つが、アントニオ・ガデスだったわけです)

 

夏は山登り、冬はスキーに連れて行ってくれました。

テニスは、かなり深入りしましたが、足が遅いことは致命傷で、大学に入ってから、きっぱり諦めました。

 

この後、スポーツは諦めて、20歳の頃は、ラリーの世界を夢見て、親に借金をして、車を改造して、ラリーに出たりしてましたが、これも、鈍臭い人は、ダメですね…

早めに足を洗いました。実は、釣りのプロにもなれるんじゃないかと思い、やってみた時期もあります。

(釣り雑誌にて、年間3位に表彰されたことはありますが、それ以上は伸びませんでした)

 

だんだんこの頃からの、やっちゃいなよ、は、責任感が重くなってきます。日本で結婚するの?しないの?って時期もありました。

 

そんな頃、私は、フラメンコと再び再会し、夢中で踊っていました。

『YOUそんなに好きなら、出来るとこまでやっちゃいなよ』

私には、プロディーサーはいなかったので、誰かがジャニーさんのように背中を押してくれたわけではなかったのですが、常にジャニーさん精神で突き進みました。

そしてときめきが原点でした。(それは今でもです)

そこから、私は、なんと、30年近く、フラメンコと向き合っています。

 

フラメンコと離れたくない一心で、スペインで仕事を始めました。(通訳、ガイドとしての仕事を教えてくださった方々に感謝)

 

私にとってフラメンコと向き合うということは、自分を知ることです。

本当の自分と向き合うのは、大変苦しい作業です。

 

誰にでも、理想の自分っていうのが居ると思うんですよね。

で、本当の自分とのギャップに苦しむのではないでしょうか?私だけでしょうか?

 

30そこそこで父親を失い、40の時、母も失い、日本に実家も無くなります。

(その頃から、今も、葛飾の親友の家族に支えられ、日本と繋がりを保つことができました。感謝いたします)

 

もう、本当に、私が、踊らなくては、いけない理由なんて、ないんじゃないかな。(いや、最初から、そんなのはなかったのかも。笑)

 

何回も踊りを辞めそうにはなるのですが、フラメンコは、なぜか、私から、離れていきませんでした。

 

30年、大事にしてきたものは、人に対するリスペクトと、本当の自分でいること。

そしてその、本当の自分は、いつまでたっても、理想の自分ではないのだけれど。。。だから、色々、悩む事はあります。

 

去年かな。。。必死で外国で生きてきてしまった私に、久しぶりに『YOUやっちゃいなよ』 が聞こえました。

 

タイミングが色々合い、今の私の周りのメンバーの助けもあり、私の伝えたいことが伝わり、実現できる気がした時でした。

そして、この” TSUNAGU 繋ぐ~” 企画が立ち上がることになります。

私は、ジャニーさんじゃないから、人生もやり方も違うけれど、彼が、2回も戦争を体験して、戦争は繰り返してはいけない歴史だってことを伝えたかったことや、彼なりの、エンターテーメントの世界を築き上げたことや、タレントの育て方は、素晴らしいと思います。

『 YOUやっちゃいなよ』 って彼に言われた、ジャニーズタレント達が、今、涙を流してジャニーさんに感謝していますね。

 

私も、多分、死ぬまで、この精神は大事にしていこうと思いますし、未来の子供達には、言ってあげたい言葉です。

 

自分の生まれ故郷の横浜公演では、小学生以下は、無料にして、外国の文化に触れてもらいたい、世の中には色んな物があることを知って欲しいと思っています。

 

フラメンコの原点を見てもらって、フラメンコ演奏しなくても良いから、ファンになって欲しい。ファンが増えないと文化は育たないと思います。

 

スペイン語や、外国語に興味を持ってもらうも良いと思っています。

 

皆が、何か少しでも変えたいと思っていると思います。変えたいと思った時、何かが変わり始めてるんだと信じます。

 

私も、理想の自分は遠いけど、何歳になっても、諦めないで、開き直らないで、止まらないで進んでいこうと思います。

 

ジャニーさん、に追悼の意を込めて。お疲れ様でした。

ゆっくり戦争のない国で休んでください。

                                                                             

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座長が好きだった最初のジャニーズ

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嵐好きの座長



                                                            By Ayako  

#ジャニー喜多川 #ジャニーズ #ARAHI #YOUやっっちゃいなよ

 

 

 

【フラメンコの楽しいトリセツ】第一弾 by 浜田吾愛(La CAPI)

こんにちは。THE FLAMENCO TSUNAGUプロジェクト ブログ管理人のHIROです。
さあ、いよいよ始まります! 音楽評論家でもありフラメンコのカンテを自分のものにして歌い上げてしまうアーティスト浜田吾愛(わかな)さんの「フラメンコの楽しいトリセツ」連載第1弾です。
吾愛さんはおばあちゃんの知恵袋のように色々スペインの音楽史のことをご存知で(大学の先生におばあちゃんの知恵袋はなんと失礼な・・)、グラナダ25年在住の我が座長亜哉子も知らない唄にめぐり合うと吾愛さんに教えをこうほど。スペインの歴史もわかるし、フラメンコあんまり知らない~という方にも楽しい読み物です! 

 

  【フラメンコの楽しいトリセツ】浜田吾愛(La CAPI)著

 自分の身体だけを使って、人間はどんなことができるだろう。

何かを表現しようとするとき、人はたとえば手を叩き、足を打ち鳴らす。

もっと激しく気持ちを伝えたければ、身体全体を揺らしもするだろう。

あるいは、心のうちを言葉に乗せて、思いの丈をその喉から絞り出すだろう。

そこには、国境も人種も関係ない。

 

それが日本においては追分節やよされ、瞽女唄、アメリカならゴスペルやブルース、そしてスペインではフラメンコと呼ばれるものになった、というお話だ。

 

それらの唄や踊りには、身ひとつで生きることを余儀なくされた人々の、心の叫びが詰まっているのだ。
 

少しだけ歴史の勉強をしよう。

かつて約800年にわたって、ヨーロッパ大陸最南端イベリア半島の支配者となったイスラム民族は、15世紀の末、キリスト教徒との戦いに破れて半島を追われる。

まるで入れ替わるようにこの地にやってきたのが、ロマ族つまりスペイン語でヒターノとよばれる流浪の民だ。

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スペインと名付けられた新しい王国で、ヒターノたちは自らの居場所を探し始める。

しかし、時の王様は簡単には彼らを認めない。

いわく「定職につけ」「定住せよ」「キリスト教徒になれ」……

 

どうです、21世紀日本のニート社会みたいでしょ。

 

それでもヒターノたちは、苦労しながら頑張った。彼らの強みは、その土地の踊りや音楽に自分たちの味付けを施す才能。

彼らがたどり着いたイベリア半島はまさに素材の宝庫だった。持たざる民の彼らにも、運がめぐってきた。

貴族の館などで彼らが披露する飾らないむき出しの芸は、いつしか評判を呼ぶ。

 

しかし身分のない彼らに回ってくるのは、いわゆる3K、4Kの仕事。

汗にまみれて働きながら、彼らはそこから唄を、踊りを生み出した。楽器がなくても、天性のリズム感が、彼らの武器。

 

“トナー”、鍛冶屋の調べ “マルティネーテ”、耕し唄 “カンテ・デ・トリージャ"、子守唄  “ナナ”、物語歌  “ロマンセ”……鍛冶場や畑の片隅で生み出された無伴奏の労働歌が、フラメンコの最初期のレパートリーとなった。[W]

 

 

ギターなしのフラメンコの唄(カンテ)源流といわれるフラメンコの例

 

座長亜哉子が初めてみたとき歌詞の内容もわからずに胸を射抜かれた伴奏なしのフラメンコの1曲 トナーではありませんが伴奏なしのCarcelerasという唄で誰でも歌えるものではないと言われている唄 Carcel=牢獄から派生した名前です 

https://m.youtube.com/watch?v=p2QvjrRZG44

 

マルティネーテ

座長亜哉子が大好きなマルティネーテの1つの映像です

https://m.youtube.com/watch?v=74U3ggKtYfA

 

 

 

いかがでしたか? 映像も面白いし興味深いので、ぜひ音が出せる環境でお試しください! 歴史と文化は深く関係しているんだなとつくづく納得。

 

次回の【フラメンコの楽しいトリセツ】お楽しみに!

 

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