舞踏家柴崎さんが舞踏に取りつかれた作品とは?
THE FLAMENCO TSUNAGUのブログ管理人のHIROです。
前回のブログはTSUNAGUプロジェクト公演の舞踏家柴崎さんが、最初に舞踏を観たときのことを書いてくれました。
今回は柴崎さんの心を捉えた作品を紹介してくれます。
出てくる演目や名前は、ググっても詳しいことは出てきませんので、何も難しいことは考えずに、柴崎さんの文章で舞台で繰り広げられていた世界を想像してみてください。パッヘルベルのカノンを聴きながら~♪
「狐のコン」 柴崎 正道
私が舞踏の核心に触れたと心底感じた舞台がある。それは、ダンス・ラブ・マシーンという舞踏集団による1980年代始めの公演「狐のコン」である。
その演目のひとつに私は震撼し、舞踏の持つ表現力に取り憑かれた。
男がひとり佇んでいる。男は白い幅広の帽子を浅く被り、上はややくたびれたグレーのシャツに、黒色のスラックスという出で立ちだった。足は裸足である。
舞踏と言えば、体を粉白粉で白く塗るのが恒例だが、男は全身を白塗りにしていない。白塗りにすると、体温が冷却され客席とは体温の落差ができるのだが、巣の肌だと体温はそのまま客席に伝播し、逆に演者の熱量が客席を凌駕するように感じられる。
舞台にこぼれるように流れた楽曲は、かの有名な「パッヘルベルのカノン」である。
男は、流麗な曲の調べに合わせ、思い出すようにわずかに身をよじらせる。男の顔は、微妙な歪みを表面に浮かび上がらせる。その歪みは、苦しみではない。痛みでもない。泣いているわけでもない。じっくりと追ってみるが、何から生まれた歪みなのかはわからない。今まで経験したことのない、いくつもの感情が居場所を求めているような表情である。
男は身をよじらせ、その振幅を増幅させる。その振幅の意味するところも不明である。
もはや意味は、浮遊する具象となり、意識の埒外で戯れに揺らいでいるのみである。
だが、男の身のよじれはそれを観る私の内奥に執拗な持続を持って語りかけてくる。
男は、ヘソを丸裸にしつつ、シャツの縁を口に咥え、シャツが造形する皺にまみれながら、ついに仄かな微笑みに転化した、慎しみ深い歪みの表情を放射するのに一心である。
はにかむような、狂おしい偏向に満ちた表情と悶えるような身のねじれに身を任せた男と客席にいる私とが一体となった感に圧倒された。
その刹那、あたりから何やら微かな啜り泣きの声が聞こえてきた。それは、実際にひとりの微かな啜り泣きであった。しかし、それはもはや私の周辺で際限なく起きる啜り泣きの連鎖だった。
気がつくと、私の両の瞼から、大粒の涙がこぼれ落ちていた。
涙を流す感情の前触れとなる高まりもなく、いきなり涙したのはこの時が初めてであり最後である。
男の名は、「田村哲郎」。1991年に41歳で他界した。
#舞踏 #柴崎正道 #ダンス・ラブ・マシーン